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追悼 内田裕也氏

内田裕也整体に通うも一進一退のまま、なかなか痛みが取れない右肩だが…

今朝、洗面所にスズメバチとミツバチの中間くらいの蜂が、壁の上部にはりついていた。。
「刺されたら嫌だな、、、」 殺虫剤だと、一気に殺せないので、ヤバイと思い、新聞紙を丸めて思い切り叩いたら、殺害には成功したが、右肩に激痛が走り、、またぶり返してしまった。。。

それはそうと、自分たちのライブのこともあり、ここで話題にしてなかったが、
内田裕也氏が亡くなった。 樹木希林が亡くなった際に、、だいぶ衰弱はされていたようだったが…。

正直、この人の歌をほとんど聞いたことがないし、音楽的には、NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVALの主催者というイメージが強い。
いくつかの映画にも主演しているが、ちゃんとみたことがない。。(「コミック雑誌はいらない」は観たと思うのだが…)
一番印象に残ってるのは、「ブラックレイン」に出ていたこと。。
それぐらいのことしか、知らない…。

だが、私、この人の前で歌ったことがある。
ここでも確か書いたことがあるが、NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVALの17回目のアマチュア出場枠のオーディションがあった。
その募集要項だが、17回目ということで、メンバーに「17歳がいること」というのが条件だったが、自称でもよく、何かこじつけで何かが“17”でも良いようで、、要するに何でもよかった感じ、、、
そして、「応募者の人権は一切無視する。文句がある奴は安岡力也が相手をする」と書かれていた。。
もちろんジョークだけど(…だぶん)、今ならどうだろう?? ある意味、、“いい時代だったな”と思う。

17歳の頃からオーディションは受けていた私だったが、、テープオーディションさえ突破できたことはなかった。
当時、25歳。はじめて、“通過”の連絡来た。。。かなり突然だったが、心斎橋ミューズホールでライブ審査を受けることになった。
「…さて、困った。」この時、やっていたバンドは自然解散状態、、次にやろうとしていたバンドはまだ始動していない。
私個人で送った「City Eyes」「Control Society」という2曲で通過した。

慌てて、少し迷ったが、これからやろうとしているメンバー4人でこれに挑むことにした。
メンバーは私のソロコーナーMOMのギター、アレンジャーの武内氏と、現トリックハウスの金村さんがベース。
ドラムはわがトリックハウスの創始者であり、名付け親の島本さんだった。30分だけスタジオで練習して挑んだ。
バンド名を何かつけたのか、、私の個人名で出たのか、記憶が定かではない。。

当日は10バンドくらいが呼ばれていたが、福岡や名古屋からも来ていて、西日本大会的な様相だった。
裕也さん、、なかなか現れず、、結構、長時間待たされた。
登場した時は、やはりオーラがすごかった。。各バンドのメンバーはもうハイテンションな感じ。
各スタッフのピリピリ感もすごかった。。。
当時の風貌は上の写真のような感じ。

冒頭、裕也氏の挨拶。。まずは、、「ブラックレイン」が封切られた1989年の11月か12月初旬頃だったが、同年11月初旬に亡くなった松田勇作への黙祷からはじまった。。
挨拶は、、途中で、本人も話の筋を見失われたのではないだろうか?
なんか収拾がつかなくなった感じだったが唐突に、、あの“よろしくロックロール”で締めくくられた。。

オーディションがはじまった。。うちはラストの10番目。
他のバンド、、上手い…というか、ライブ慣れしている感あり。。

ふと見ると、島本さんがいない。。見渡すと、裕也さんが座っている席の後ろに立っている付き人(バックバンドのギターリストのよう)の隣に立ち、その人と話している。「積極的やな。。」と思ったら、、
あとで聞くと、学生時代のバンド仲間だったよう。。その事にもびっくりだが、、、普通、、バンド仲間に「あっ知り合いや」とか何も言わずに、、そっといなくなっていたのにビックリした。


3バンド目くらいから、裕也氏乗ってきたのか、、「ちょっとバラードもやってみて」とか、、5バンド目くらいから、「これからのバンドは、5曲くらいやって」とか言い出す。。。自由やなぁ。。
当然のことながら、我々は、、2曲しかできない。。。「ヤバイ…」

だが、しかし、、とにかく“緊張しい”の私だったが、開き直ってたのか、、そんなに緊張していなかった。
自分たちの番が来た。。。立ち上がろうとした時、、、「足が無くなったのではないか?」と思うくらい、、
感覚がない。。実は、最高潮に緊張していたのかもしれない。。。


ステージに上がる前にスタッフの一人に、「すいません、僕ら2曲しかできないんですけど?」って言ったら、そのスタッフが小声で、、「裕也さんに直接言って」と言うので、、マイクでそう言うと、、裕也氏が、「君が宮本くんか?」と言って来たので、「ハイ、そうです。」と答えた。
これが裕也氏と私の唯一の会話だった。

演奏がどうだったのか? まったく覚えていない。
たぶんあまり良くなかったと思う。。他のバンドの人が、、なんか呆然と見ている。
裕也氏は他のバンドの時は、いろいろコメントしていたが、、、「ハイお疲れさん」とだけ言うと、スタッフに「これで全部終わり?」と聞いていた。

その時に出ていた10バンド中5バンドくらいは、年末のライブに出演していた。
我々には合格通知は来なかった。

それから半年後、その新バンドは、BSヤングバトル大会のテープ審査に通り、
兵庫県大会に進出、、、神戸国際会館で演奏した。


そしてさらにその翌年には、裕也氏の前で演奏した「City Eyes」もこのようになった。


時々、裕也氏の前で演奏できるチャンスが、、もう少しあとだったら、、と思う時がある。

ただ、このバンドがあって、、島本さんとの出会いがあり、今のトリックハウスにつながっていると思う。
それにこの頃の作品の歌詞の世界は、「ブラックレイン」と同じ監督の「ブレードランナー」の世界観に影響を受けていると自分では思っていて、それはトリックハウスの第1曲目「Out Of Control」にも受け継がれている。。

裕也さん、、あの時、私の曲を聞いてくださり、ライブ審査に呼んでくれてありがとうございました! 
合掌(宮本)

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