私事になりますが(…ってここで書いているのはほとんど私事だが…)9月8日の4:33に父が亡くなった。享年86歳。
9月7日(金)は、トリックハウスがきたる9月22日のライブに向け、最後のスタジオ練習だった。
仕事を終えて、難波のスタジオに向かい、23時15分に練習を終えて、帰宅。まずまずの調子。。。
終電で明けて9月8日0:45帰宅。一息ついてから、入浴、食事、、その間、大雨、
3:00前後に避難勧告のエリアメールが流れる。翌日、休みだが、、遅くとも8:00迄には起こされる。
「そろそろ寝るか。。。」就寝して、少しウトウトした時、電話が鳴った、、
1階で母が出たが、、突然の電話で、体調が悪くなったようで、這うように階段を上がりながら、私の名を呼ぶ。
電話に代わって出ると、、「…今すぐ来れますか?」とのこと、、
少し心で思う、、「今、避難勧告出てるけど、、それを深夜、山道を、、」。
が、かなり切迫してるようだ。「急変して、このままお亡くなりになるかもしれません。」とのこと。家内と娘も連れていくことにした。。
認知症の症状も出ており、4年ほど前から、家庭の事情もあり、泣く泣く、特養に入った。
とても良いところで、本人もかなり気に入っていたようだ。終の棲家になると聞いていたのだが…。
2年ほど前から、食事を摂れなくなり、胃ろうに。それは問題なかったが、尿路感染症を発症し、継続的な治療を要するため、特養を出なくてはならなくなった。そういうことがあるとは聞いてなかった。。
ある病院に入ったが、、そこではあまり良い扱いを受けることなく、かなり衰弱。
そこも数か月で出る必要があるため、、途方に暮れていたが、1年ほど前から、
病院と老人ホームの合わさったようなところに入所、かなり顔色もよくなっていたので、もう少しは生きてくれると思っていたのだが…。
4:15くらいには、病院に着いたが、電話すれど、、なかなか中に入れず。
4:30にようやく病室に、、意識はなさそうだし。。。すぐに先生と看護師さんが入って来る。
両親とも末っ子なので、私は身内の死に遭うのははじめてだ。
ドラマではよく見るが、、先生が、おもむろに、瞳孔チェックを行う。。
そして、時計を見る。。「あぁダメなんだな。。」、、そして冒頭の日付と時間を先生が言う。
まだ腕は暖かかったが、、おそらくたどり着くより先に息は絶えていたのだろう、、、
家族の到着を待って、死亡確認ということだったようだ。。
7日前から、尿路感染症による発熱があったが、9/7の16時ころに嘔吐による誤嚥性肺炎を起こし、それが死因となった。そして12時間後に急変して、、長く苦しまなかったのが救いだ。
とにかく通夜、葬儀と手配しなくては、、、
以前から、両親が会員になっている葬儀屋さんがある。
まだ4時台だが、24時間対応と書いてある。。電話を入れると受付の人が出て、、、すぐ担当の方から折り返し電話が来た。
10時には迎えに来るとのこと、、いったん自宅に帰る。。
一睡もしていない、さすがに朝食を食べる元気はない。
が、母は、普通に朝食を摂り、、普通に風呂掃除をはじめた。。思わず「今日はええやろ」と突っ込む。
私も、1回病院に戻り、父を葬儀会場に運んでもらい、そこで日程の打ち合わせ。。
土曜日に通夜、日曜日に葬儀すれば、、仕事を休まず済むと思ったのだが、、
火葬場がいっぱい、、月曜日は友引ということで、月曜日通夜、火曜日葬儀となった。
まぁ身内だけで、ひっそりと執り行うことにした。
これらの顛末は、情報としては役に立つと思うので、落ち着いたら、またUPしたい。。
それが終わると、娘のいつもの通院だったので、連れていき、、
そのついでに休日ではあるが、仕事で行く予定だった3店ほどへの届け物へ、、
帰宅してすぐに17時から、斎場へ行き、いろいろ取り決めて契約に。2時間以上かかった。。とても親切な方だったが、、葬儀屋さんって激務だな。。
バタバタしながら、家族は、、、普通にテレビを観たり、、買い物に行ったり。
今日の午前中も斎場に行ったが、、午後からは、父がエンバーミングという処置を受けるため、何もすることがなくなった。それもあってか、、、終始我が家は、驚くほど平常運転だった。。
若い頃やんちゃで、気難しく不愛想な父と、比較的まじめに生きて来た私は真逆だったが、腹を立てることも、お人好しなところも、、人が「えっ?」と思うことを理解できたところもある。。
根底の部分では、似てるのだと思う。 というか、最近、似て来たようだ。。
ふと考えてみると、私は父と面とむかって、会話したことがあまりない。。。(それは悔いであるが…)
だから、ああしろ、こうしろと、干渉されたこともない。
3つだけ言われたのは、「関西人は阪神ファンでないといけない。」「将来は株や学生運動なんかせずに、地道に汗を流して働け」「自分より弱い奴と喧嘩するな」だけ。。
どれも、あまり要領の良い生き方ではない気がする。。3つだけだったので、それは守って生きて来た。
お陰で、、たいした人間ではないが、大きく道を逸れることもなく、生きて来れた。生前には言えなかったが、、、「ありがとう」(宮本)
9月7日(金)は、トリックハウスがきたる9月22日のライブに向け、最後のスタジオ練習だった。
仕事を終えて、難波のスタジオに向かい、23時15分に練習を終えて、帰宅。まずまずの調子。。。
終電で明けて9月8日0:45帰宅。一息ついてから、入浴、食事、、その間、大雨、
3:00前後に避難勧告のエリアメールが流れる。翌日、休みだが、、遅くとも8:00迄には起こされる。
「そろそろ寝るか。。。」就寝して、少しウトウトした時、電話が鳴った、、
1階で母が出たが、、突然の電話で、体調が悪くなったようで、這うように階段を上がりながら、私の名を呼ぶ。
電話に代わって出ると、、「…今すぐ来れますか?」とのこと、、
少し心で思う、、「今、避難勧告出てるけど、、それを深夜、山道を、、」。
が、かなり切迫してるようだ。「急変して、このままお亡くなりになるかもしれません。」とのこと。家内と娘も連れていくことにした。。
認知症の症状も出ており、4年ほど前から、家庭の事情もあり、泣く泣く、特養に入った。
とても良いところで、本人もかなり気に入っていたようだ。終の棲家になると聞いていたのだが…。
2年ほど前から、食事を摂れなくなり、胃ろうに。それは問題なかったが、尿路感染症を発症し、継続的な治療を要するため、特養を出なくてはならなくなった。そういうことがあるとは聞いてなかった。。
ある病院に入ったが、、そこではあまり良い扱いを受けることなく、かなり衰弱。
そこも数か月で出る必要があるため、、途方に暮れていたが、1年ほど前から、
病院と老人ホームの合わさったようなところに入所、かなり顔色もよくなっていたので、もう少しは生きてくれると思っていたのだが…。
4:15くらいには、病院に着いたが、電話すれど、、なかなか中に入れず。
4:30にようやく病室に、、意識はなさそうだし。。。すぐに先生と看護師さんが入って来る。
両親とも末っ子なので、私は身内の死に遭うのははじめてだ。
ドラマではよく見るが、、先生が、おもむろに、瞳孔チェックを行う。。
そして、時計を見る。。「あぁダメなんだな。。」、、そして冒頭の日付と時間を先生が言う。
まだ腕は暖かかったが、、おそらくたどり着くより先に息は絶えていたのだろう、、、
家族の到着を待って、死亡確認ということだったようだ。。
7日前から、尿路感染症による発熱があったが、9/7の16時ころに嘔吐による誤嚥性肺炎を起こし、それが死因となった。そして12時間後に急変して、、長く苦しまなかったのが救いだ。
とにかく通夜、葬儀と手配しなくては、、、
以前から、両親が会員になっている葬儀屋さんがある。
まだ4時台だが、24時間対応と書いてある。。電話を入れると受付の人が出て、、、すぐ担当の方から折り返し電話が来た。
10時には迎えに来るとのこと、、いったん自宅に帰る。。
一睡もしていない、さすがに朝食を食べる元気はない。
が、母は、普通に朝食を摂り、、普通に風呂掃除をはじめた。。思わず「今日はええやろ」と突っ込む。
私も、1回病院に戻り、父を葬儀会場に運んでもらい、そこで日程の打ち合わせ。。
土曜日に通夜、日曜日に葬儀すれば、、仕事を休まず済むと思ったのだが、、
火葬場がいっぱい、、月曜日は友引ということで、月曜日通夜、火曜日葬儀となった。
まぁ身内だけで、ひっそりと執り行うことにした。
これらの顛末は、情報としては役に立つと思うので、落ち着いたら、またUPしたい。。
それが終わると、娘のいつもの通院だったので、連れていき、、
そのついでに休日ではあるが、仕事で行く予定だった3店ほどへの届け物へ、、
帰宅してすぐに17時から、斎場へ行き、いろいろ取り決めて契約に。2時間以上かかった。。とても親切な方だったが、、葬儀屋さんって激務だな。。
バタバタしながら、家族は、、、普通にテレビを観たり、、買い物に行ったり。
今日の午前中も斎場に行ったが、、午後からは、父がエンバーミングという処置を受けるため、何もすることがなくなった。それもあってか、、、終始我が家は、驚くほど平常運転だった。。
若い頃やんちゃで、気難しく不愛想な父と、比較的まじめに生きて来た私は真逆だったが、腹を立てることも、お人好しなところも、、人が「えっ?」と思うことを理解できたところもある。。
根底の部分では、似てるのだと思う。 というか、最近、似て来たようだ。。
ふと考えてみると、私は父と面とむかって、会話したことがあまりない。。。(それは悔いであるが…)
だから、ああしろ、こうしろと、干渉されたこともない。
3つだけ言われたのは、「関西人は阪神ファンでないといけない。」「将来は株や学生運動なんかせずに、地道に汗を流して働け」「自分より弱い奴と喧嘩するな」だけ。。
どれも、あまり要領の良い生き方ではない気がする。。3つだけだったので、それは守って生きて来た。
お陰で、、たいした人間ではないが、大きく道を逸れることもなく、生きて来れた。生前には言えなかったが、、、「ありがとう」(宮本)
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