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ヘビーメタルレボリューショ先週、大学に入学し、音楽サークルにも入り、「さぁこれから!」という時に

帯状疱疹で入院するハメになったものの、ラウドネスのライブで復活!!


それから約2ヶ月後に行ったのが、これは調べてみて判明したのだが、

1983年8月29日大阪毎日ホールで3バンドが出演した「ヘヴィ・メタル・レヴォリューション」であった。


当時の私の目的は、ラウドネスの二井原氏が元々いたアースシェイカーだった。

1980年の二井原氏の脱退後、西田(vo)、甲斐(BASS)斐が加入。

1983年6月、「泣くがいい声をあげて泣くがいい」の伊藤政則をプロデューサーとして1stアルバムを発売していた。ラウドネスの「ちょっと何言ってるかわかんない」歌詞よりわかりやすく、日本人にはグッとくる歌メロ。

とはいえ、まだ、デビューから2ヶ月なので、このサイズの会場でのワンマンでのコンサートは無理だったのだろう。


オープニングアクトは、まだメジャーデビューしてなかった44マグナム。(同年12月にメジャーデビュー)

バンド名くらいは知っていたが、音楽は聞いたことがなかった。

全員金髪、、なんかステージ狭しと走り回っている。印象としてはヘビメタというよりパンクという感じを受けた。

影響を受けたのは、、サウンドではなく、この人たちが当時、履いていたのが、ヘビメタの象徴のひとつであるブーツではなく、ハイカットのバスケットシューズ。。。動きやすそうだし…。

「うん、これでいいんだ。」




次に出て来たのは、浜田麻里、、同年4月に1stアルバムを発売していた。

記憶が正しければ、バックバンドは、ゼウスと名乗っていたと思う。

その時には、正直、そんなに強い印象を受けなくて、、むしろゼウスのツインギターのハモりが、

ステージの左右で、きれいに鳴り響いたという記憶の方が強い。

おそらくバンドとしては、この日、一番、うまかったのではという印象を受けた。

まさか、この人が、その後、ソウルオリンピックの楽曲を歌い、ヘビメタの枠を超えた、ビッグアーティストなろうとは、、予測できなかった。


そして、トリは、アースシェイカー。バラードナンバーの「I FEEL ALL SADNESS」の曲のエンディング、、

ヴォーカル西田氏のロングトーンは凄かった。。


最近、知った情報では、、この直前の東京でのライブでは、

同じタイトルのイベントに、この数か月あとくらいからどっぷりハマることになるノヴェラも出演してたというから、そっちも観たかったなぁ。。。


このあたりから、しばらく私はジャパメタに夢中になっていき、

1年後には、自らオリジナル曲でのハードロックバンドをやっていくことになる。

曲創りの観点からいうと、私にとって、プラスになったのか、偏りになってしまったのかは、よくわからないが、

この年のライブ観戦経験は、私の音楽活動にとっては、ひとつのターニングポイントになったのは間違いない。


ところで、ふと思うのだが、私はかなり強力な方向音痴なのだが、、、

まだネットもなく、もちろんスマホのマップもない時代、、、あまりコンサート会場へ行くのに迷った記憶がない。 何故だろう???

この毎日ホールだが、今はMBS劇場のあるところにあったようだ。

まぁまぁ私の勤務先にも近い。。。 迷わなかったが、どこにあったかの記憶もない。。(宮本)


ラウドネス前回ここで書いた1980年の「ロック五番コンサート」が私の歌手、バンドのライブ初体験だったが…。

その後、高校生の間、ちょこちょことLマガジンという情報誌の懸賞に応募し、「招待券」をゲットしていた。。。

当時、私の曲創りに大きな影響を与えてくれた小柴大造&エレファントをライブハウスに観に行ったこともあったが、それは自らお金を払って行ったものだ。

その後は、レインボーやらディープパープルやらアイアンメイデンやらにハマって行くのだが、

1982年の3月、高校2年生も終わりかけの頃にバンドのヴォーカルとしてはじめてステージに立った。

もちろん私が歌うのは、小柴大造先生。。。


この時、一緒にライブを行ったバンドのひとつがコピーしていたのが、レイジーやらラウドネスだった。

ラウドネスが、ファーストアルバムを出したのは、1981年11月とあるから、前述の私の初ステージは、1982年3月。…ということは、件の同級生のコピーバンドは、そのアルバムが出てから4か月後には、

そこから3曲程度をコピーして演奏していたことになる。。。

当時から自分たちより格上という意識はあったが…今、思えばたいしたもんだな。。


私が、ラウドネスの曲を聞いたのは、本物より同級生たちの演奏が先だったかと思う。

それでラウドネスを聞き、レイジーの「宇宙船地球号」も後追いで聞いたのだ。


ラウドネスというと、アースシェイカーを1980年に「もうハードロックは歌いたくない」と脱退した二井原実をヴォーカルに、元レイジーの高崎晃(ギター)、樋口宗孝(ドラム)、そしてゼファーというバンドにいた山下昌良(ベース)。1981年11月にアルバム『THE BIRTHDAY EVE 〜誕生前夜〜』でデビュー。。


アースシェイカーのその時のメンバー(特に石原氏)は、、どう思ったのか???

(アースシェイカーのことは、次週、後編で語るとして…)


それはともかく、前身があったとはいえ、わずか1年でデビューアルバムを創り上げたのか…


当時、そんな経緯など知るはずもない私だが、、

このアルバムは、「日本にもついにハードロックの夜明けが来たのだ」と思った。。

もちろん、いろんなバンドが巷では活動していたのだが、、そんな情報は知るところではなかった。


そして、大学に入学し、しばらく京都まで片道3時間近くをかけて通学していた時、


おそらく多くのファンとは違い、アイアンメイデンといえばポールディアノのほうが好きだった私だが、そのヴォーカルがブルースディッキンソンに代わっても、ヘッドフォンで大音量で聞きまくっていた1983年の6月ころ。

新譜「頭脳改革」を聞いたあとから、原因不明の激しい頭痛に見舞われた。

しばらく、それでも通学していたが、、一向に良くならず。。


いくつめかの病院でようやく帯状疱疹ということがわかり、入院するハメに。。


約10日くらい入院後、「もう少し入院したほうが…」という医師を振り切り、退院した。

それは、ラウドネスのコンサートのチケットを買っていたからだ。。


そして、ラウドネスのコンサートに友人と2人で向かったのだが、

ずっと寝ていて、急に電車に乗ったり、歩いたりしたせいか、、気分が悪くなった。

なんとか友人に支えられるように会場へ。。


冒頭から総立ちになる盛り上がりだったが…。

私はついていけず、、、友人にも、「無理せず、座っとけ」と言ってもらい、イスを畳んで立て、そこに腰掛け、

座ってるのが目立たないようにしていた。

樋口宗孝のドラムソロ、、ベードラが腹に堪える。。


…が、いつの間にか、不思議なことに体の調子がよくなり、、

後半からは、ノリノリになり、すっかり回復した。ハードロック万歳!!


いやぁ、、これが音楽の力か???


学生時代、多くのコンサートを観たが、記憶に残るコンサートのひとつだった。。(宮本)


「バンドのブログなのに、野球の話のほうが多い」とよく言われる。。。

ごもっともです。。。


時々は、音楽のことも書いておきたい、、、


私は、中学時代吹奏楽部だったので、クラシック系統のコンサートは少しは行ったことはあったが、

歌手、、バンドのコンサートというのに初めて行ったのが、表題の「ロック5番コンサート」だった。


覚えていることもあるのだが、これを書くにあたって、少しだけ調べてみたが、

あやふやな記憶を埋める情報はついぞ得られなかった。


“そこ”に行く経緯になったのは、、

中学1年生の時に仲のよかったクラスメイトに「タダ券がもらえたから行かないか」と誘われたからだ。

その友人は、中1の時に仲が良かったが、その後は別のクラスだったし、部活も異なっていたので

その後、プライベートで遊ぶような関係ではなく、高校も別の学校へ進学した。


なので、誘われた時に「え? 俺を誘ってくれるの?」と少々違和感があった。

だが、「音楽といえば、、おまえを思い出した。。」ということではあったのだが、、

私は、確かに既にギターを持って、曲創ったり、歌たったりはしていたが、、

お宅限定であり、人前で歌たったりもしてなかったのだが、、


これらから、推察すると、中学を卒業し、もうすぐ高校へ行く頃か、あるいは入学後間もない頃じゃないかと思う。つまり1980年、、そして会場もよくわからない、、そこそこのサイズだった。

大阪と思い込んでいたが、神戸という可能性もある。


で、その「ロック5番コンサート」とは、、、

各地区代表と言う体で、5グループが出演した。


トップバッターは、北海道代表として五十嵐浩晃。この時23歳。

本人がMCで「僕もロックなんですかね?」と戸惑いつつももう1人のアコースティックギターの演者と2人で演奏。

これもあやふやだが、存在は知っていたし、ヒット曲「ペガサスの朝」も歌っていた気がする。

この人は1980年5/21に「愛は風まかせ」でデビュー、「ペガサスの朝」は、同年11月発売。

この情報から、早くも私が記憶している時期とは同じ1980年としても、多少のズレを感じる。

北海道にもロックはあっただろうが、、主催者の思惑によるものだろう。。。


たぶん2番手として登場したのは、東北代表としてHOUND DOG大友康平24歳。

1976年に結成はされているが、デビューはこの年。

「嵐の金曜日」は歌っていたと思う。多少は知っていたのか、この時に知ったのかは定かでない。

客席の前部に進み出てノッているのは、数名。

友人が一生懸命盛り上げているのかな? という印象で、まだアマチュア感があった。



この動画のライブは、ブレイク後ではないかと思う。


次は、関西代表。桑名晴子&ベーカーズショップ。この時24歳。

私の憧れのヴォーカリスト桑名正博の妹。16歳でプロ歌手となっていたが、音源デビューは22歳の時。「歌うまいな」と思ったが、、この日の出演者の中では私は一番知らなかったと思う。


続いて、九州代表は、シーナ&ロケット鮎川誠32歳、シーナ27歳

年齢的には、他よりは少しベテラン感があるが、1978年にシングルデビューし、

1979年にはヒット曲「ユーメイドリーム」が出ていたので、人気が出始めたころだったのでは。

まずまず知っているグループだった。


そしてトリは、RCサクセション忌野清志郎 29歳

1978年仲井戸麗市、新井田耕造、1980年Gee2woが加わり、全盛期のメンバーがそろったところだった。この時、RCサクセションを観たいファンが一番多かったと思う。

「雨あがりの夜空に」をはじめ、私の耳に残ってる曲は、出そろっていた気がする。




このグループを一同に観れたのはスゴイことだ。

あと少し時期がズレていたら、とてもじゃないが、実現できなかったイベントだったと思う。。


ブレイク寸前ののちのビッグアーティストの若いエネルギーを感じることができた

私にとってもロック初体験にして、貴重な体験だったと思う。。。冒頭の友人には感謝!!!


ただ、まだ私のロック魂に火が着くのは、もう少しあとのこと。。。


ラジオ局のイベントだったと記憶しているのだが、、、当時は802とかまだないし、FMなのかAMなのかも不明。

このイベントの正確な日時と会場だけでも知りたいのだが…、

誰かご存じないだろうか??? (宮本)


大阪桐蔭優勝何か今年は圧倒的に強いのか、、わが阪神…と思っていた開幕戦。

仕事から自宅に帰ったあたりからあれよあれよという間に逆転され、前代未聞の開幕連敗…。


前代未聞というと高校野球。

大阪桐蔭が、下馬評でも頭一つ抜けていると言われていたが、、、

まぁ決勝戦が大差のゲームになることは、

エースが牽引してきたチームだと疲れが出てということでよくあるが、

大阪桐蔭の準々決勝から決勝までの圧倒的強さは、ついつい興ざめさえ覚えてしまった。


原因がコロナなのか、野球のあり方なのかはよくわからないが、

今年の高校野球、、ふと、「アレ? あんまり本塁打見てないなぁ」と思ったら、

1回戦は浦和学院の髙山選手の1本だけ、第2号はようやく2回戦、ひと回りした同じ浦和学院の金田選手が打った。

4号が出たのは準々決勝のやっぱり浦和学院の伊丹選手そして、5号が鍋倉選手。

1,2回戦の24試合を経て、5本中4本までが浦和学院の選手。


ところがである。

準々決勝の4戦目にして、大阪桐蔭が、1試合6発。

準決勝は1本だったが、決勝で4発。

今大会の計18本の本塁打中11本が大阪桐蔭。4本が浦和学院、近江1本、国学院久我山1本、星稜1本。

ここだけ見ても圧倒的というのがわかる。

こうなると1回戦、大阪桐蔭を3点(自責点2)に抑えた鳴門の冨田投手はスゲェとなる。


なんか久々に、阪神ファンからは、「大阪桐蔭と試合やったら、負けるんちゃうか」という自虐が聞こえるようだ。

さて、阪神が今シーズン、優勝争いに加わるの(あえて優勝とは言わない。。)と

夏に大阪桐蔭を倒すチームが現れるのとどちらの確率が高いのか?


画像話は変わって、、、

私、最近、ここでもちょいちょい書いているが、どうも体調がすぐれない。

体調が悪いというほどではないのだが、、、胃腸なのか、逆流性食道炎とかなのか、、

頻脈になって、フッーとなったり。


土曜日は、私も家内も同時に外出できる稀有な状況になったので、

万博記念公園に花見に行って来ました。

近所でもそこそこ桜が咲いているところがあるので、人が多いところが好きではない私は本来気が進まないのだが…

まだマシであろう午前中に出かけましたが、、帰りにはスゴイ人混みになってました。。

桜よりも、、まだ少し早かったなという感のあるチューリップの方が期待感(?)はあったかな。。。


太陽の塔か、、、

6歳の時に万博に連れて来られ、、太陽の塔に入りたいと言ったら、

やっぱり人混みと並んで待つとかが物凄く嫌いだった亡き父に「あんなとこ入られへん」と嘘をつかれ連れ帰られたなぁ。。。

そう言えば、明日58歳になる。。52年の歳月か。。。


ワクチン接種やらコンペ制作やら、なんやかんやでバンドの個人練習も少なめになっているうちに

コロナ禍のスタジオ練習自粛の中でも上げ気味に持って来ていたのが、どうも下降気味に感じる。

ちょっと喝を入れて頑張らねば。。(宮本)