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因果応報とセルフ

欠けた1万円札つい書き忘れていたが、4月4日に54歳になった。サザエさんでいえば、“波平”と同年齢である。
えらい年になったもんだが、、別に何も悟っていないし、成長もしていない。

家内が手にした1万円札に写真のような“欠け”があったので、それを買い物で使うのが嫌だったらしく、ATMでの入金に使用し、続けて、別途、引き出したら、同じ1万円札が帰って来た。
「因果応報」と笑ったが…。

「因果応報」とは、
善悪の原因があれば必ずそれに相応する楽苦の結果のあることをいう。
前世における行為の結果として現在における幸不幸があり、現世における行為の結果として来世における幸不幸が生じること。
…とある。

人生においては(私だけかもしれないが…)、何かと腑に落ちないことがある。
「何の因果か…?」と思うこともしばしばだ。
私は、自分の人生において、心がけていることがあるとしたら、棺桶に足を突っ込む時に、「あいつには悪いことをしたな。。」というのをできるだけ少なくしたいと考えている。
ただ、それはもちろん既に皆無ではないし、これからもいくつかは増えるだろう。
生きていく上では、ある程度、仕方ないかもしれない。

「別に悪いことしてないのに、なんでこんな目に…」と思っても、、
気づかないうちに、人を傷つけたり、気分を害したり、悪事に加担しているのかもしれない。
いや、きっとしてるな。。

しかしながら、世の中を見渡してみると、もっと歴然と人を貶め、踏みつけている人間が、むしろ“されている側”より報われている感が強い。殴る側が常に殴る側である例の方が多い気がするのだ。

そもそも「因果応報」という言葉がなぜ生まれたのか??
それは現世において、必ずしも、悪事に対する報いが公正に行きわたってはいないために、それでもなお、それを戒めるための“言葉”ではなかったか??
そして、それがやはり現世においての「裁かれない悪」という矛盾、理不尽に“落とし前をつける”ために前世とか来世まで、持ち出しているのではないだろうか。。。

私は私でまっとうに生きよう。

話は変わって、「私は私で…」というと“セルフ”である。
そもそも、冒頭のATMなんかも“セルフ”であるが、今日はガソリンスタンドの“セルフ”に初挑戦した。
…といっても私は運転席から、家内がするのを見ていただけだが、、「案ずるより産むが易し」
支払い方法を選び、ガソリンの種類を選び、レバーを握って止まるまで入れればいいだけである。
支払いもカードなので、現金の受け渡しもなく、「え?もう終わり」という感じで終了する。

TSUTAYAでも、貸出し処理、支払いも店員いらず。ただし、私も家内も、元々レンタル店(まだビデオのころ)で働いていた経験があるのに、だいぶマゴついた。返却もBOXに入れるだけで、ちょっと不安になる。
スーパーのレジでも、ボチボチ増えて来ましたね。

働き手が減っていく中、少し味気ないが、これも世の流れか。。。
おっさんも、少しついていかないと、、老後の生活もままなりませんなぁ。。。(宮本)

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