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1995-2020年

阪神高速今まで、あまり触れたことはなかったのですが、1月17日。あれから25年が経った。
2020年など、遥か先の未来と思っていたのだが…。

少年時代から、地震の経験がまったくなかった。
火山が見当たらない(?)近畿にはともかく大きな地震が来ないという“迷信”を信じていた。
私の記憶にある最初の地震は、19歳の頃、京都の日用雑貨用品店の倉庫の2階に下宿をしていた。
真っ暗な倉庫の両端に梯子に近い階段の上に2部屋ずつある部屋だった。

夏休みのアルバイトで買った小型のテレビをダンボールの上に置いて就寝していたが、
まずまず揺れて、思わずテレビを押さえた。その程度の経験しかなかった。


ただ1994年の9月に私は結婚しているので、確かその前、7月頃に軽い地震が、頻繁に起こった。
「猪名川群発地震」と呼ばれているのは、ずいぶん後から知ったが、当時は、会社で話しても誰も「?」。
自分の「錯覚なのか…」とも思えた。頻繁に続いたが、やがてピタリと止まった。
あまり記憶にないが、能勢町では、同年11月頃にもやや場所を変えて、同様のものがあったらしいから、そのあたりでも、あったのかもしれない。
気持ち悪かったが、結婚もし、1995年を迎え、すっかり忘れていた、、そして“あの日”が来た。
ドーンと下から突き上げられるような衝撃。家にトラックでも突っ込んだかと思い、眼を覚ます。
就寝灯が、プツッと消え、少しばかりの間のあと、真っ暗な箱の中に入れられ、大きく振り回されているような感覚。
隣に寝ていた身重の家内の腹をかばうようにしたが、身動きはまったく取れない。
凄まじくカラスの鳴き声がする。そのあとも余震は続いたが、雨戸も含め、鍵も閉まっていたハズの窓は勝手に開き、部屋のいろんなモノが散乱。1階にいた母親が一番冷静で、出っぱなしになった洗面所の水を止め、階段に投げ出された金魚を救出していた。

その後、停電。情報も何もなく、先に家を出た近所の人が、「電車が止まっている」と言っていた。
当時、私は車で通勤していた。2台並べている車が、前の車のバンパーに後ろの車が乗りあげていた。

その群発地震の経緯もあり、その大地震も局地的なモノと思っていたので、とにかく会社に行かねばと思い、急いで車に乗った。しばらく進むと、ジュースの自動販売機が無残に倒れている。
音楽を止めて、ラジオに切り替えた。浜村淳の「ありがとう…」が掛かった。過去の地震の話をしているが、割とノンビリな感じ。
やがて豊中あたりに差し掛かると、ビルのガラスが崩れ落ちている。。
会社に遅れることを気にしていたが、何だかそれどころではない感じがした、、思わずラジオのチャンネルを変えた。
高速が倒れているとか、報道しているがピンと来ない。

かなり遅れて、吹田市江坂にある会社についた。こちらの方が落ち着いている。
先輩社員が、「よくお前来れたな…」と言った。数人しか出勤できていない。
仕事どころではなく、社長室でテレビを観た。衝撃的なシーンの数々にみんな唖然と立ち尽くした。

当時は携帯は持っておらず、家に公衆電話で帰るコールをしたが、いつもは40分くらいで帰る帰路が異常な混雑になり、5時間くらいかかって帰宅した。

勤務していた会社の芦屋店、私も1年近く勤務した西宮店は、全壊。他にも数店が、続行不能になった。
電車がまだ止まっている箇所も多い中、歩いて、店の復興にむけて、HELPに行く日々が続いた。

阪急伊丹自宅は、新築でまだ1年半ほどしか経ってなかったが、あっちこっちひび割れ、戸の立てつけもおかしくなっていた。
…とはいえ、あの被害だ、、少年時代から高校時代まで、最寄り駅だった阪急伊丹駅も画像のようになった。
その中では、取るに足らない被害だった。

その3週間後に生まれた我が子は、重篤な障がいをもって産まれた。
兵庫県人だったが、神戸の専門病院にはとてもいけず、大阪の光明池にある大阪府立母子センターへ運ばれた。
娘を診てくれる病院、多くのママ友、、も大きく変わっただろう。

1995年1月17日からわずか1ヵ月で、私の人生も、価値観も大きく変化した。

それにしても、あれから地震、台風…大きな災害が多い。
ちょっとしたことで、人の運命は大きく変わるものではあるが、
災害で被害が出るたびに、やはり辛くなるなぁ。。(宮本)

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