年明けに急遽LIVEの予定が決まったが、“おっさんバンドの泣き所”、、まだ今のメンバーになってから全員揃って練習できたのは2、3回。それもその最後が半年以上前だった。
1月に何とかスタジオ練習を3回押さえたが、先日の2回の練習はひとりずつ参加できず、
昨夜のLIVE前最終練習(写真)も2時間の練習の半分を過ぎてからようやく4人になったものの、結局、5人揃うことはなく、とうとう本番へ。。。
しかし私も22年ぶり、、何かLIVEの感覚は忘却の彼方だ。。 大丈夫かな??
学生の頃などは、LIVEに向けて短期で集中的に練習して挑むこともあった。
このバンドがスタートした時、私の個人の理想としては、いつでも1時間くらいのLIVEができる状態を作って、それができたら、LIVEの時間配分に従って演奏曲目の構成を変えて出ていけるようなバンドにすることだった。
しかし、もう少しというところで、退歩したり、メンバーが抜けたり、もうすぐ9年経ってしまう。
理想を持ち過ぎたことで、逆に理想から遠ざかってしまったのかも知れない。
…で、とりあえず「出てしまおう…」というのが今回なのだが、、
…さて、どうなることやら。。 今回の結果はともかく“きっかけ”になれば良いのだが…。
練習の終わりにベースの金村さんが「前も、練習ちょっとだけして出たことがあったね。」と言ったので、思い出した。。
確か1989年の11月頃だった。
年が明けたら、新バンドを始動することが決まったところだったが、
内田裕也氏が企画する年越しLIVEにアマチュア枠で出演させるバンドをオーディションするという企画だった。
募集要項には、「メンバーに17歳がいること。ただし自称でも良い。(結局なんでも良い)」、「応募者の人権は一切無視する。文句がある奴は安岡力也が相手する。」 …すげぇ。。
…なぜか個人で送ったテープ審査が通ってしまい、名古屋~九州の西日本地区で10バンドを集めたLIVE審査へ。
慌てて、組む予定だったメンバーを招集。ベースの金村さん、ギターのたけうち氏(MOM)は演奏した事のある曲だが、ドラムの人は初めて顔を会わす人(実は前任ドラマー島本さん)だ。当然、曲も知らない。
時間が取れず、対象の2曲を30分だけスタジオ練習して本番へ。
場所は「心斎橋ミューズホール」。裕也さんは、かなり予定時間に遅れてやって来た。
しかし、登場するやいなや、すごいオーラだった。 スタッフもピリピリしている。
冒頭、ちょうど松田優作が亡くなったところで、全員で黙祷となった。
お話もあったが、例の感じで途中で話がまとまらなくなり、「…よろしくロックルール!」で締めくくられた。
途中のバンドから2曲ではなく、「もう1曲やってくれ」となり、後半には「これから演るバンドは5曲やってくれ」と言い出した。
…しまった2曲で精一杯だ。。
う~んレベルが高い。。「しかし意外に緊張してないな」と思っていたが、最後だった出番に向おうと立ち上がると、
足の感覚が無いくらいガクガクだった。
スタッフに「あのぉ…僕ら2曲しかできないんですけど…」と言うと、
スタッフが困った顔をし、小声で「裕也さんに言って。。」と言った。
…で、ステージのマイクでそう告げると、「君が宮本くんか?」と言われた。「はい、そうです。」 私と内田裕也氏の短いが熱い男の会話だ(笑)。。
まぁ、、演奏は散々だった。。。
曲の最後で手を振り回していたら、ギターのたけうち氏が振り向き様に勢い良く飛び込んで来たので、リキラリアットが決まってしまった。。。 「あっ」。。悲惨な光景だった。
他のバンドにはいろいろコメントしていたが、「はいご苦労さん。これで全バンド終わり?」で終わってしまった。
ここに参加していた半数くらいのバンドは年越LIVEに出演していた。
「あのチャンスが、もう1年あとだったら。。」と思った。
…懐かしい、、この経験が“理想”を持つ要因になったかも知れない。
しかし、そもそも、準備万端のところにチャンスは来ないものだな。。
なるほど、“とりあえず動く、転ぶ、起き上がる、シェイキナベイビー!”
さぁトリックハウスの記念すべき第1歩。。 転んで「渇」を貰いに行きましょう!! (宮本)
1月に何とかスタジオ練習を3回押さえたが、先日の2回の練習はひとりずつ参加できず、
昨夜のLIVE前最終練習(写真)も2時間の練習の半分を過ぎてからようやく4人になったものの、結局、5人揃うことはなく、とうとう本番へ。。。
しかし私も22年ぶり、、何かLIVEの感覚は忘却の彼方だ。。 大丈夫かな??
学生の頃などは、LIVEに向けて短期で集中的に練習して挑むこともあった。
このバンドがスタートした時、私の個人の理想としては、いつでも1時間くらいのLIVEができる状態を作って、それができたら、LIVEの時間配分に従って演奏曲目の構成を変えて出ていけるようなバンドにすることだった。
しかし、もう少しというところで、退歩したり、メンバーが抜けたり、もうすぐ9年経ってしまう。
理想を持ち過ぎたことで、逆に理想から遠ざかってしまったのかも知れない。
…で、とりあえず「出てしまおう…」というのが今回なのだが、、
…さて、どうなることやら。。 今回の結果はともかく“きっかけ”になれば良いのだが…。
練習の終わりにベースの金村さんが「前も、練習ちょっとだけして出たことがあったね。」と言ったので、思い出した。。
確か1989年の11月頃だった。
年が明けたら、新バンドを始動することが決まったところだったが、
内田裕也氏が企画する年越しLIVEにアマチュア枠で出演させるバンドをオーディションするという企画だった。
募集要項には、「メンバーに17歳がいること。ただし自称でも良い。(結局なんでも良い)」、「応募者の人権は一切無視する。文句がある奴は安岡力也が相手する。」 …すげぇ。。
…なぜか個人で送ったテープ審査が通ってしまい、名古屋~九州の西日本地区で10バンドを集めたLIVE審査へ。
慌てて、組む予定だったメンバーを招集。ベースの金村さん、ギターのたけうち氏(MOM)は演奏した事のある曲だが、ドラムの人は初めて顔を会わす人(実は前任ドラマー島本さん)だ。当然、曲も知らない。
時間が取れず、対象の2曲を30分だけスタジオ練習して本番へ。
場所は「心斎橋ミューズホール」。裕也さんは、かなり予定時間に遅れてやって来た。
しかし、登場するやいなや、すごいオーラだった。 スタッフもピリピリしている。
冒頭、ちょうど松田優作が亡くなったところで、全員で黙祷となった。
お話もあったが、例の感じで途中で話がまとまらなくなり、「…よろしくロックルール!」で締めくくられた。
途中のバンドから2曲ではなく、「もう1曲やってくれ」となり、後半には「これから演るバンドは5曲やってくれ」と言い出した。
…しまった2曲で精一杯だ。。
う~んレベルが高い。。「しかし意外に緊張してないな」と思っていたが、最後だった出番に向おうと立ち上がると、
足の感覚が無いくらいガクガクだった。
スタッフに「あのぉ…僕ら2曲しかできないんですけど…」と言うと、
スタッフが困った顔をし、小声で「裕也さんに言って。。」と言った。
…で、ステージのマイクでそう告げると、「君が宮本くんか?」と言われた。「はい、そうです。」 私と内田裕也氏の短いが熱い男の会話だ(笑)。。
まぁ、、演奏は散々だった。。。
曲の最後で手を振り回していたら、ギターのたけうち氏が振り向き様に勢い良く飛び込んで来たので、リキラリアットが決まってしまった。。。 「あっ」。。悲惨な光景だった。
他のバンドにはいろいろコメントしていたが、「はいご苦労さん。これで全バンド終わり?」で終わってしまった。
ここに参加していた半数くらいのバンドは年越LIVEに出演していた。
「あのチャンスが、もう1年あとだったら。。」と思った。
…懐かしい、、この経験が“理想”を持つ要因になったかも知れない。
しかし、そもそも、準備万端のところにチャンスは来ないものだな。。
なるほど、“とりあえず動く、転ぶ、起き上がる、シェイキナベイビー!”
さぁトリックハウスの記念すべき第1歩。。 転んで「渇」を貰いに行きましょう!! (宮本)
| 18:25
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